- 2015年12月02日
- ストーリー
ストーリーとは何からうまれ、何に変わるのか
出典:http://nihongo.istockphoto.com/
コーポレートアイデンティティ、CI、企業理念にコーポレートメッセージetc…経営陣がいくら大層なものを掲げていても、正しく等しくインナーブランディングが行われなければ、ただの飾りになってしまう。
内部で理念浸透しないものが、社外の広い競争社会で通用するはずがない。では、どうやって従業員の間で企業の考えを共有させればよいのかという問いに、わたしは「ストーリー」を加えるように、と助言する。
「ストーリー戦略」については以前綴ったが、今回は「ストーリー」の存在そのものについて考えてみようと思う。
「ストーリー」ことばの意味
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ストーリーは直訳すると物語、筋書きだ。
物語とは何かを調べると、
1 さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい―」
2 特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる―」
3 文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。狭義には、平安時代の「竹取物語」「宇津保物語」などの作り物語、「伊勢物語」「大和物語」などの歌物語を経て、「源氏物語」へと展開し、鎌倉時代における擬古物語に至るまでのものをいう。広義には歴史物語・説話物語・軍記物語を含む。ものがたりぶみ。
4 歌舞伎・人形浄瑠璃の演出の一。また、その局面。時代物で、立ち役が過去の思い出や述懐を身振りを交えて語るもの。 https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E-186183
とある。今回わたしが示す物語とは、1に該当するものだろう。
一方で筋書きはというと、以下のようだ。
1 演劇や小説などの大体の内容を書いたもの。あらすじ。「芝居の―」
2 あらかじめ仕組んだ展開。「事が―どおりに運ぶ」 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/118204/meaning/m0u/
この場合、1も2も近いような気がする。
「物語」にしろ「筋書き」にしろ、わたしがここで語る「ストーリー」とは、「ひとの心を動かす唯一無二のもの」であり、「現実社会で生きて活用されてるストーリー」だと前置きしよう。
どんなに難しいことばも、身近な出来事や感情表現に例えると、理解しやすくなるだろう。たとえば親が子どもに「ひとを殴ってはいけない」と教えるとき、なぜひとを殴ってはいけないのか、殴るとどんな結末が訪れるのかなどを、たとえ話をして言い聞かせることがある。
ひとを殴ると相手が怪我をする。怪我をすると相手はどんな気持ちになるだろう。目を怪我したら大好きな電車を見ることができなくなるかもしれない。痛くて遊べなくなるかもしれない。このように具体的な事象を提示することで、子どもはなぜひとを殴っていはいけないのかというストーリーに「共感」できる。理解すべきものの難易度はともかく、「共感」することで心に浸透するのは、子どもに限った話ではない。
しかし、共感を呼ぶコンテンツはストーリーだけではない。一枚の写真、料理、香りからだって、共感し、感動を得ることがある。共感を目的とするなら、ストーリーばかりに頼らなくてもよいではないかと言われれば、そうかもしれない。それでは、モノとストーリーの差についても考えてみよう。
静止画やモノとストーリー
ずっと応援しているサッカーチームが優勝をした翌日、新聞一面に優勝を決めた瞬間の写真が大きく掲載されていたとしよう。
その写真をみて狂喜乱舞するひともいれば、優勝の事実を情報として記憶にとどめるだけのひともいると思う。
両者の違いを平たく言えば、サッカーに対する興味の差かもしれない。
では、同じサッカーファンで、優勝チーム以外のファン目線を加えてみよう。そうしたとしても、優勝チームのファンほどの喜びや興奮はみせないだろう。ひいきにしているチームの敗北に対する嘆きや悲しみが優っているかもしれない。
このような感情が生まれたとき、直接的な起因となったものは「写真」だけではないと考えている。もちろん、この世のものとは思えない絶景を収めた写真などから得る感動も存在するけれども、そちらについてはニュアンスが異なるので割愛させていただきたい。
写真により揺り動かされた感情の出処について話を戻そう。喜ぶ側と悲しむ側、両者に共通していることはサッカーファンということだけではなく、「優勝に至るまでの経緯」を知っているということだ。
過去にどんな選手が在籍していて、どれだけの接戦が繰り広げられ優勝に至ったのかを知らなければ、「へぇ、優勝したんだ」という感想以上、語りようがない。もっとディープなファンは、選手それぞれの人生までも、情報として得ているだろう。
そうなると、「写真」そのものが感情を刺激したのではなく、「チームが辿っている道のり」から切り出された「一場面」に反応したのだと考えられる。それも栄光を手にした歴史的瞬間ならば、狂喜乱舞したくなる。この場合、「チームが辿っている道のり」こそが、ストーリーに相当するものではないだろうか。
しかし、美味しい料理を食べてお気に入りのレストランを見つけたときは、「レストランが辿っている道のり」というストーリーに共感したわけではない! 味覚、嗅覚、視覚が刺激されたんだと主張されるかもしれない。
このケースも、わたしには五感だけの感動とは言い切れない。美味しい料理のレシピが生まれるまでに行われた、料理人たちの試行錯誤、料理人たちがそのレストランで腕をふるうまでの軌跡。あらゆるものが交差した延長線上に、その料理が生まれたのだから。
そしてその料理に感動したひとの人生の中に、「いきつけのレストラン」として組み込まれて展開されていく。
いま、見聞し、触って感じたり、舐めて感じるものは、人生の中の一瞬の出来事だ。何かを見た、食べた、触ったという行動は、自分にとってはただの一場面かもしれない。しかし、その一場面をシェアした側にとっては、現在進行形の通過点なのだ。
化石だって、いきなり化石になったわけではない。数千年、数万年の時間を経て、いまの形になった。気が遠くなるような時間のなかで、どのような変化を辿ったのかを知れば、興味のあるひとはどんどん化石に魅了されるだろう。
まとめてみると、わたしはあらゆるもが、時間の軸の上で生まれたものだと考えている。魔法のように、ゼロの空間から突然出現したり、なんの予備動作なしに美味しい料理や、優勝の座を手にすることはできない。つまり、あらゆるものに、それぞれが時間の経過と同時に辿ってきた道のり、ストーリーがある。ストーリーがあるから、その進行上の一瞬に何かを生み出し、共感させることができる。
スーパーにりんごが並ぶ光景にはストーリーを感じないかもしれないが、その光景は長野のりんご農家から続くストーリーの「ひとコマ」かもしれない、と感度が高い人なら気付くだろう。
静止画やモノにも、必ずといっていいほど「ストーリー」が存在していると考えるのが妥当ではないだろうか。
点が線になったとき、ひとは心動かされる
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企業理念やコーポレートアイデンティティを、本当の意味で理解してもらうために「ストーリー」が必要だという意味を、少し理解してもらえただろうか。
CIや企業理念、クレドなどが、従業員にとってただの「静止画」という認識では、いくら毎朝の朝礼で復唱させていても「共感」はされないし、理解もされない。結果、実行されるはずがない。これらは、企業や経営者が進む時間軸から生まれたひとつの「点」であり、点だけを従業員に放ってもその先のストーリーを生み出すことはない。
CIや企業理念、クレドと呼んでいるものを生み出した経緯、想い、先に描く共有したい未来など、企業側の時間軸にある点と、従業員が持つ点を結ぶことで同じ時間軸を歩むことができる。この点と点を結ぶための線が、ストーリーだ。
時間の流れの中に変化が生まれたときは、新しいストーリーが生まれたとき。だれかの心が動いたときは、ストーリーに変化が起きたとき。
点と線をつなぐストーリーは、唯一無二のものになる。似たようなシーンがあるかもしれないけれど、全く同じ過去、現在、未来を辿ることはない。企業も、ひとも、モノも、生まれた瞬間からストーリーを持っている。
想像と共感はすこし違う。
自分が人生や歴史というストーリーの登場人物であることを感じ、自身の行動には、周囲に絡み合うストーリーに変化をあたえる可能性や力があるのだと知れば、他者の言葉や気持ち、想いにも共感しやすくなるだろう。
ストーリーというレールがなければ、未来に向かうことも、心を動かすことなどできない。
そう、信じている。